最近読んでいる本のひとつ、庄野潤三氏の「せきれい」。
子供もとうに巣立ち、孫も増え、山の上の我が家に妻とふたり。
そんな庄野氏と奥様の、おだやかに繰り返される老年の日々を
丁寧に書きつづった長編エッセイ。

ピアノのけいこに通っている奥様は、
ブルクミュラーの「せきれい」という曲によくよく手こずっておられる。
おけいこから戻り、庄野氏は決まって
「いかがでした?」と奥様に訊く。
奥様は「ひどいの」とか、
「せきれいはもう一回ひいてみてくださいといわれた」とか
うれしそうにこたえる。
老夫婦の、静かで穏やかな会話のひとこま。


ブルクミュラー。
バイエルをあがり、ソナチネに進む前くらいに習う曲集。
夕方のNHKの幼児番組「ゆうがたクインテット」で宮川彬良氏も、
よくブルクミュラーを編曲して使っている。
耳にするたびに、あっ、と台所仕事の手がとまる。


「せきれい」がどのような曲だったかピンとこなかったので、
楽譜やさんにいく。
譜面をひらいて、音を追う。
「アラベスク」「狩」「バラード」「タランテラ」「つばめ」「乗馬」.....。
懐かしい曲の数々。
それらをひいていた小学生の頃の自分と、何十年ぶりかに対面したような
甘酸っぱい気持ち。
全25曲それぞれのメロディの中に、ぎゅっと詰まった何かをみつけ、
胸に満ちてくる心地よい感動。


幼稚園のころから習っていたピアノは、
度重なる転校をきっかけに中学生のころやめてしまった。
でも、ひとりのとき、よく弾いた。
やめてからの方がたのしく弾いていた。
鍵盤にむかっていると落ち着いた。
ピアノを習わせてくれたことは、今でも両親に一番感謝していることだ。


昨日のことだが、もうすぐ幼稚園で発表会をする息子が、
合奏で「もっきん」をやるという。
「スケーターズワルツ」をするとクラス便りにかいてあるので、
「もっきんなんてできるの?」と息子に問うと、
「ミーソーララー、ファーラーシシーだよ」というのでたまげた。
息子が鍵盤を理解して、弾けるなんて。
ドレミを口にすることができるなんて。
たまげすぎて涙がにじみでてきた。

ぎゅうぎゅうになった心のすきまを、音楽はいとも簡単にすうーっと流れ込んできて、
指の先足の先まで、その響きで安心させてくれる。
「ピアノをまた習いたいな.....」などとぼんやり思うときがある。
なんの魂胆もなく、なんの邪心ももたず、
ただ鍵盤に向かう時間がくれる満ち満ちた安心感が無性に恋しい。


先の庄野氏の本の中にある奥様との暮らしには、
年を経て達観したものだけが手にすることができる優雅さがあって、
その「きちっとさ」に、自分との隔たりを感じずにはいられないのだけれど、
相手をそのまま受け入れ、お互いを思いやり、
自然にいきるご夫婦の視線はあたたかい。
ゆっくり空をみあげたいな、と思う。
おいしくご飯をたべたいな、と思う。
懐かしいあのひとにあいたいな、と思う。
ピアノがひきたいな、と思う。


わたしは、安心できる場所をずっと探し続けているような気がする。


2006.11.30






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