安心


 子供は「安心」を喰って生きている、と思う。子供にとって母親の存在は絶対的で、 その求められる愛情を裏切ることなく接してやりたい、と常日頃思ってはいるのだけれど、子供からの危険信号にはっと我に返るなんとも申し訳ない瞬間が多々あるのが現実で。

 託児所に朝送っても私の側から片時も離れず、私は泣く子のふとした隙をみはからって帰るような状態だった。他のお友達に近寄られることを極端にこばみ、モノに執着し、なにせまわりにおびえているようで、毎日の保母さんからの報告に、私の中で不安がぐるぐるうずを巻いていた。

 母親と共に参加する村の親子講座ならくうも安心して遊べるかと思って出席してみたけれど、はじめからお帰りまで泣き通しだった。私にまた置いていかれるか、という不安の方が先走っていたのだろうか。そしてお友達が自分の世界に入ってくることを異常に怖がっている。回りへの気使いと、くうのヒステリックな行動に、ほとほと疲れて帰る始末であった。

 そんなこんなで御気楽を自覚していたこの私が、夜も寝れない。こんな事で悩む親を客観的に見ると滑稽なのは充分分かっているつもりだが、自分達のこととなるとやはり不安に振り回されるものなのだ。押し入れの奥から育児書など引っぱり出してきたりとなにかに頼りたい一心で私らしくない行動にも出る。

 追い込まれた状態は、視野を狭くする。ふとそれに気付いたとき、私は子供ではなく自分自身について考えてみた。なにより安心感をくうは求めているのではないか。

 そんな根本的なことさえ見えなくなっていた。突然ひとりで外の世界に放リ出されてさぞかし不安な思いだったろう。さまざまな世界に触れて欲しいという親の希望が先走っていることにやっと気付いた。

 それから私は、くうと2人の時間を大切に過ごすようになった。沢山だっこし、膝に乗せてお話をし、お歌を唄い、大好きなビデオも一緒に見る。託児所に行く前にもたっぷり時間をとってくうと遊ぶ。私自身が自分を見直すことに気をとられてばかりいたのかもしれない。他の人に子供を見ていただく解放感を味わって、くうにちゃんと向き合っていなかったかもしれない。くうはそんな親の変化をなにより肌で感じていたのかもしれない。

 しばらくして深い海底からやっと顔を出すことができたかのように、くうはおねえさんになった。託児所にいくとおおはしゃぎして、「おかーしゃん、ばいばい」という。

 なによりくう心の中にある「安心」を入れる箱がいっぱいになっている事を感じれるのが嬉しい。親も子供に安心をあげる満足感を喰って子育てしているようなものだ。


2000.11.10






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