今の季節、無性に童話がよみたくなって、
宮沢賢治の「貝の火」や「やまなし」や「セロひきのゴーシュ」、
小川未明の「金の輪」や「二どと通らない旅人」や「牛女」「野ばら」といったお話を読んでいた。

美しい世界だなあ、とおもうのだ。
幻想、何でも美しく見える子供時代の目線、残酷さ、
正しいことはなにか、暖かいとはなにか...

そういった感覚的なものがぎゅっとお話の中につまっている。

時折お話をひとりで声にだしてよむ。
心が自由に解放される。心を感じる力がよみがえってくる感じだ。
「宮沢賢治を時折声に出してよんだりしています。」とある方に伝えると、その方も、
「実は私もひとりで賢治を朗読してその時間を満喫しています。
声に出してみると、文章にリズムがありますよね。
とても幸せな気持ちになります。」と返事をくださってうれしかった。

ここのところ透明な言葉の力と、それを声に出すことの美しさに、魅了されている。


先日、昔自分がサイトに綴っていた日記を読み返していた。
(今はサイトからはご覧になれませんが、後々選んで再度アップしたいと思っています。)
7,8年前、上の娘がまだよちよち歩きの頃の日記の一節に目が止まった。

2000年4月21日の日記より抜粋

ふと我に帰ると、あしもとに、
大きな瞳をこちらに向け、
わたしを台所へつれていこうとズボンのすそをひっぱっている娘がいた。

「おなかすいたの?」
わたしは紅茶を娘の口に含ませ、台所へつれられていった。

「なにがほしいの?」
「いーちーごっ」
「じゃ、キレイキレイしてから食べようね。」
「きれーきれーっ」
「はいどうぞ」
「はいっどーじょ」
「おいしい?」
「おーいしっ」

わたしは娘を「母」というベールを脱いでみていた。

目の前にいる女の子は、
とても小さく、
無垢で、
綺麗だった、
小さな口から出てくることばのひとつひとつが、
透きとおってみえた。

昔読んだ、話をするたびに口から宝石がこぼれおちるお姫さまのお話。
その光景が今、目の前にある。



この日記の中で、娘のことばのことを「透きとおってみえた」と書いている自分がうれしかった。

透きとおった言葉......。
幼い子供と24時間向き合う育児奮闘時代には、
髪ふりみだしながら日々迷いと格闘ばかりで時がすぎていったようでいたけれど、
子供の口から発せられることばのその透明さを感じ取れるだけの誠実さが
親の自分の中にも育っていたのだとおもい、感激した。

今小学校で読みきかせ活動をしているときにも、おもうのだ。
子どもがお話の世界に入り込んで感じ取っている姿のストレートさから、
人間のただしさ、みたいなものをこちらが感じ取ることがあって満たされることを。

童話とは、透明さをかたちにした芸術作品だとおもう。
ひとつひとつの宝石をじっくりとたのしんでいる。


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